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2014年9月1日 東京新聞
◆「吉田調書」全容判明◆「東日本壊滅イメージ」◆2号機危機時 死も意識 東京電力福島第一原発事故をめぐり、政府の事故調査・検証委員会が現場の指揮を執った吉田昌郎元所長=昨年7月死去=から当時の状況を聞いた「聴取結果書(吉田調書)」の全容が30日、判明した。 共同通信が入手した調書で吉田氏は、2号機の原子炉水位が低下し危機的状況となった事故発生4日目の2011年3月14日夜を思い起こし「われわれのイメージは東日本壊滅。本当に死んだと思った」と述べるなど、過酷な状況下の心情を吐露している。
吉田氏の証言は他の聴取対象者の証言とともに政府事故調が12年7月にまとめた最終報告書に反映された。政府は近く、吉田氏の調書を公開する。
11年3月15日に東電が第一原発から「全面撤退」すると政府が解釈したことには「逃げていないではないか」と怒りをあらわにし、現場の状況を理解しなかった首相官邸や東電本店に対しての不満も口にしている。3号機の爆発で一時、多くの行方不明者が出たことについては「40何人不明という話で、その時死のうと思った。本当に亡くなっているなら、腹切ろうと思った」と語り、作業員の安全を強く意識していたこともうかがわせた。事故初期段階に、1号機原子炉を冷却する非常用復水器(IC)を当直員が停止させた。機器や圧力容器の損傷を防ぐためだったが、吉田氏には情報が伝わらず「確認すべきだった。猛烈に反省している」と述べている。
吉田氏の調書はA4判で約400㌻。吉田氏は生前、「記憶の薄れ、混同で事実を誤認している部分もあると思う。内容の全てが事実であったかのように独り歩きしないか危惧している」として非公開を望んでいた。しかし政府は、調書の内容を複数の報道機関が報じ「このまま非公開とすることは、かえって本人の意思に反する」と公開を決めた。
<メモ>
政府の事故調査・検証委員会
東京電力福島第一原発事故で政府が2011年6月に設置した第三者機関。畑村洋太郎東京大名誉教授を委員長に、研究者や法曹関係者ら計10人で構成。技術顧問のほか、社会システム、事故原因、被害拡大防止対策のチームごとに調査に当たった。検察庁や国土交通省など各省庁からの出向者が事務局を務めた。菅直人元首相ら事故当時の閣僚や東電幹部など関係者計772人を約1500時間にわたり非公開で聴取。12年7月に最終報告書をまとめた。
福島第一原発事故当初の経過(肩書きは当時)
2011年3月
11日
14時46分▼東日本大震災発生。東京電力福島第一原発で運転中の1~3号機が自動停止。外部電源の供給停止
15時27分▼津波の第1波が第一原発に到達
15時35分▼津波の第2波が到達。その後1~5号機で全交流電源喪失
15時42分▼東電が国に原子力災害対策特別措置法10条(全電源喪失)通報
16時45分▼東電が原災法15条(冷却機能喪失)通報
19時 3分▼菅直人首相が原子力緊急事態宣言
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12日
4時ころ ▼1号機原子炉に消防車で真水注入
6時15分▼菅首相が第一原発視察のためヘリコプターで官邸出発
6時50分▼毎江田万里経済産業相が東電に格納容器から蒸気を放出するベント実施を命令
7時11分▼菅首相が第一原発到着
8時 4分▼菅首相が第一原発を出る
9時 4分▼ 1号機でベンド作業開始
15時36分▼ 1号機で水素爆発
19時 4分▼ 1号機原子炉に海水注入開始
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13日
9時20分▼3号機でベンド実施
9時25分▼3号機原子炉に注水開始
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14日
11時 1分▼3号機で水素爆発
夜▼2号機格納容器の圧力が異常上昇。清水正孝社長が第一原発からの退避を電話で政府側に申し出
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15日
5時35分頃▼菅首相が東電本店で「撤退はあり得ない」と迫る。政府・東電の統合対策本部設置
6時14分頃▼2号機圧力抑制室の圧力計の数値がゼロに。4号機で水素爆発。一部人員を残して第二原発への退避決定
6時33分▼吉田昌郎所長がテレビ会議で「必要な人間は班長が指名」と発言。退避始まる
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2014年9月1日 東京新聞
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