2013年9月15日日曜日

【必読書】Hard Duty 過酷な任務・ある女性のチェルノブイリでの体験(日本語版)

ガラケー用のリンクはこちらです。

電車の中でも、どこでも読めるように書き出しました。
過去における重大な事実を、知らないまま人生と過ごすことと、知って過ごす人生は景色が違ってくるんじゃないでしょうか?
是非、大切な方とShareして、今一度、自分の人生を見つめ直して頂けたらと思います。

http://www.google.co.jp/gwt/x?hl=ja&client=twitter&u=http%3A%2F%2Ft.co%2FLapmLKlomK


貴重なチェルノブイリの放射能事故と事故後の記録の日本語訳版です。

チェルノブイリで事故処理「Hard Duty(苛酷な任務)」ある女性科学者の体験
2011-07-22 12:07:51 | 福島第一原発
 ナタリア・マンズロヴァの「Hard Duty」を読むと、チェルノブイリの事故処理に様々点で、関与した人々にどのようなことがおきたのか、健康面や精神面でどうした緊迫した事態が続いていたのかがはっきりとわかります。これは、福島でおきることを推定させる話であり、当時のソ連のような統制国家であれば、出来た話が、逆に日本のような制約がかけられない社会では、できないことが逆に多いことも理解できます。
 この文書は現地に入り込んだ人々に何がおきたのかが分かる話です。「リクィデーター」といわれる人々がどのような状態になったのか、特に脳神経にどのようなことがおきたのかは、チェルノブイリを知る専門家が、今回危惧して僕に再三伝えていた情報とシンクロします。精神的な部分である種の障害がおきること、具体的に脳に影響が強い事。さらに欲望、特に性欲が増す事など、表で語られにくい事象も、文章にされています。こうしたことを確認しておく事が、これから僕らが生きていく状況を正確に認識する事にも通じると考えています。
 引用されている写真などには、正視に堪えない写真もあります。これを踏まえたうえで、しかしあなたは、きちんとご覧になることをすすめます。(小さいお子さんにはおやめになったほうがよいと思います)

これも翻訳された大羽さんなど米国在住の皆さんの努力の賜物です。皆さん、謝意を。(以上、木下黄太さんのブログから引用)

http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/5bee59d559b1efc76244d361843f5529

http://zenplanning.com/nuke/HardDuty/
http://www.zenplanning.com/nuke/HardDuty/HardDuty_JP.pdf

PC環境がなくて、携帯電話もガラケーで読めない方のために、取り急ぎ、こちらに文章を転載してshareします。
(私のノートpcでうまく写真を切り抜いて転載することができなくて、それでも可能な限り、写真も転載します。デスクトップのpcが使えるときに、改めて写真は載せ替えます。パソコンをお持ちの方は、是非、パソコンでご一読をお奨めします。)

過酷な任務・ある女性のチェルノブイリでの体験

Natalia Manzurova and Cathie SuIlivan
ナタリア・マンズロヴァとキャシー・サリヴァン
翻訳:後藤健太郎・大羽正律・大羽比早子

訳者より
 2011年4月10日にカリフォルニア州バークレーの街で「チェルノブイリの4分の1世紀」というタイトルで集会が行われました。主催はCenter for Safe Energy(安全なエネルギーのためのセンター)という米国のNGOで、バークレーの公共ラジオ放送局KPFAやその他の環境団体が共催しました。ロシアから3人の活動家がチェルノブイリについて話し、そのさい福島の事故についても触れてました。そのうちの一人が本書のナタリア・マンズロヴァでした。その集会で本書「Hard Duty」が配布されていました。福島第一原発の事故を受け、これからの日本でチェルノブイリでの経験から学べるものがあるのでは、ということで日本語訳について交渉し、彼女たちの著作権を明記すれば自由に日本語版を作ってよい、という了解を得ました。
 原書はロシア語の聞き書きを英文にしたものです。そのため固有名詞などが英語からの表音になっているものもあります。例えばチェルノブイリの除染作業者を指す言葉は、「リクィビダートル」とロシア語からの日本語表記の使用例もすでにありますが、原書の英語の「リクィデーター」の使用例もすでにあるため、後者で統一しました。また距離の単位が米国のマイルになっていたため、カッコ内でkmで概算していますが、端数は切り捨てている場合もあります。これは、ロシアではメートル法で語られてたものを、英語にするときにマイルに直したものを、またメートルに戻しているためです。
 PDFバージョンが下記のアドレスから閲覧、ダウンロードできます。英語版のMS Wordで作ったためレターサイズの半分になっており、A4の半分と少し異なりますが、日本でしたらA4の半分で印刷できると思います。本にする際は必ず、著作権や最後の参考資料の部分も含めて印刷してください。商業目的での販売はしないでください。
2011年7月カリフォルニア州バークレーにて
大羽正律
Hard Duty「過酷な任務」PDF





共に
冷戦が終結して11年目の2002年、核技術を応用した核兵器や
原子力の安全性を危惧するロシアと米国女性たちの、合衆国政府
基金によるプログラムで、私はナタリア・ボリソヴナ・マンズロヴァとパ
ートナーでした。
ユーラシア社会変革行動協会(The Institute for Social Renewal 
and Action in Eurasia (ISAR))が2002年と2003年に私たちのスポン
サーになり、ナタリアと私はロシアで出会いました。 その時はチェル
ノブイリの事故や、ウラル山脈にあるナタリアの故郷のマヤークにあ
る冷戦当時には秘密だったプルトニウムの生産工場で、健康障害を
起こした労働者たちに会いました。旅の後半では、米国で核兵器生
産に従事してやはり健康障害を起こした労働者たちとも会いました。
米国の映画会社ビジョナリーズが、米国の公共テレビのために私た
ちの共同プロジェクトをミニ・ドキュメンタリーにしました。
さらに2004年には、チェルノブイリから60マイルのウクライナのキエ
フでナタリアと再会し、事故に関連して社会的、医学的に深刻な打
撃を受けた各地のコミュニティーに、国連によって設けられたウクライ
ナ・コミュニティー・センターをサポートする団体、FOCCUS(Friends 
of Chernobyl Centers, United States )と一緒に旅をしました。
FOCCUSとの旅の途上でナタリアは、チェルノブイリの核災害を軽
減するために戦った何万というソビエト市民(リクィデーター)の一人
としての経験を私たちに語ってくれました。
キャシー・サリヴァン 2006年ニューメキシコ州テスケにて
Cathie Sullivan, Tesuque, New Mexico, February, 2006 
©Copyright, 2006 Natalia Borisovna Manzurova & Cathie L. 
Sullivan1
ナタリアが語った部分は文字が斜体になっています。
キャシーのコメントは斜体になっていません
リクィデーターとは?* 
1986年のチェルノブイリ原子力発電所の事故に関心のある人たち
によく訊かれるのは、なぜ60万人から 75万人のソ連の兵士や除染
作業をした市民たちを「リクィデーター(訳注:清算人 / 除染作業
員)」と呼ぶのかということだ。私の友人のナタリア・ボリソヴナ・マンズ
ロヴァがそれについて詳しく答えてくれる。
彼女は 4年半、ソ連政府
の命令で「事故による重大事を清算」した数十万人の一人である。
その作業は言いかえれば、「恥ずべき証拠を隠滅」するためだった
ので「リクィデーター(清算人 / 除染作業員)」と呼ばれるようになっ
たのだ。
チェルノブイリ事故による病気や、それに続く1990年から
1991年のソ連邦崩壊による試練は、数十万人のリクィデーターた
ちに共通する経験である。ナタリアの声は彼女がチェルノブイ
リで友達になった人々の声を反映している。その中には若くし
て亡くなった人や、彼女のように病気を抱えて生きている人も
いる。
ナタリアはジョセフ・スターリンの独裁時代に生まれ、現在
はロシア連邦内のチェリャビンスク地域にある、モスクワから
1000マイル(1600キロ)東にあるウラル山脈の中で育った。彼
女の生まれ故郷のオザースクとそこにあったプルトニウムの生
産工場マヤークは、1991年に政府がその存在を認め地図に工
場と町が表示されるまで、極秘のソ連核兵器複合体の一部であ
った。

ナタリアと彼女の両親はマヤークで働いていた。1940年代にス
ターリンの命令によって秘密の原子爆弾の工場を建てるために、
モスクワの東1000マイルにあるウラル山脈の中で松の森林を伐
採する仕事が、彼女の親たちの仕事だった。その工場は米国が
日本で原子爆弾を使用したことに対抗して、スターリンによっ
て計画されたものだった。*

*多くの歴史家の見解によれば、スターリンの恐れには確たる理由が
あった。米国が広島と長崎に原子爆弾を落とした主な動機は、ヨーロ
ッパの分割についての戦後交渉の前に、スターリンを威嚇するためだ
ったと言われている。

パート1:チェルノブイリの事故
1986年に爆発した原子炉は、現在のウクライナ国内にあるチ
ェルノブイリ原子力発電所にある4基の発電機のひとつである。
計画されていたあと2基の原子炉が建設されていれば、チェル
ノブイリはヨーロッパで最大の原子力発電所になっていただろ
う。しかしチェルノブイリの約束された未来は1986年4月26日
午前1時23分に終了した。その時、不安定で危険な状態になっ
ていた原子炉をシャットダウンするための「スクラム」ボタン
を、4号炉のコントロール・ルーム・エンジニアが押し遅れた
のだ。その後4秒間でパワーが原子炉の稼動最大値の100倍にな
り、温度が摂氏7000度に上がった。一分以内に1200トンの溶融
した核燃料と他の物質が混ざったものが形成された。*
それに続く二つの爆発で原子炉の巨大な1000トンの「生態系
保護」のカバーが吹き上げられ、原子炉内にある1661本の銅製
冷却用水パイプが外れた。基部が怒った犬の逆毛のように突き
出した。放射性燃料は空に飛び散り、原子炉からはイオン化し
た放射性物質が環境に放出された。燃え続けるガスによる50フ
ィートの炎が放射性物質の拡散を悪化させ、その後10日間にわ
たりチェルノブイリからの放射性物質は北半球の全ての国に到
達し、全ヨーロッパの3分の2を少なからず汚染した。

*工場の責任者たちは、原子炉は爆発しないようにできていると信じていて、
マニュアルには低い出力時における不安定さについては書かれていなかっ
た。最終的に人が原子炉のある部屋に送られ、実際に原子炉が爆発したこ
とが確認された。送られた人たちは「放射線熱傷」を起こし、すぐに病気にな
った。そして数日後に急性放射性障害で死亡した。

隣接した建物の屋根は爆発で飛んできたものに引火して火事になった。消
防士たちは高濃度の放射線の中で 1、2分しか働けなかった。後に彼らの
多くはこの被曝によって死亡した。
政府の対応はあまりに貧弱で遅く、批判に対する恐れから機能不
全になっていた。事件直後10日間のニュース規制により、多くの
人々が被曝から身を守るために必要な情報を手にすることができな
かった。しかし平常であることを印象づけるため、海外の科学者の忠
告を無視して、政府は 1986年 11月に残り 3基の原子炉の稼働を
再開した。1997年の火事でそのうちの 1基は停止を余儀なくされ、
残りの 2基も国際的な圧力により 2000年には停止された。
しかしチェルノブイリの問題は 1986年にはもちろんのこと、事故に
関連して保障を受け取った人の数が(2000年の時点で)700万人に
ものぼったという見積もりを国連が発表した 2002年になっても片付
いてはいなかった。

前線のリクィデーターたち
(ナタリア・マンズロヴァの話)
消防士たち
 原子炉が大気にさらされた、事故の最初の10日間に作業
した多くの消防士たちやヘリコプターのパイロットたちは、
死亡したり病気になったりしました。多くの場合、致命的
な被曝は、高濃度の放射線領域から離れるよう警告する計
器がなかったために起こりました。消防士たちは原子炉か
ら飛び散った、燃える黒鉛や核燃料で火のついた近くの3号
炉によじ登りました。とてつもなく高濃度の被曝環境で、
燃えているものをシャベルですくったのです。彼らは数週
間または数ヶ月以内に苦痛に喘ぎながら亡くなりました。
ある消防士の死体はは燃えている物に挟まれて、2度と取り
出すことができませんでした。また鉛の棺桶に入れられて
モスクワのミティノ墓地に埋葬された消防士たちもいます。
彼らもチェルノブイリの最も栄誉あるヒーローたちです。*
ヘリコプターのパイロットたち
数十人のヘリコプターのパイロットたちが、被曝から身を守
ると信じてウォッカを飲みながら、コンクリート、鉛、砂や他
の物質5000トンを落としましたが、原子炉の炉心の場所を間違
えました。これにより熱がこもり、砂と鉛を放射能汚染し、2
度目の爆発を誘発し、霧状になった鉛と砂を含む放射性の雲は
上空に舞い上がり、5月1日と2日に恒例のメーデーを祝ってい
たキエフ市に降り注ぎました。事故当時には、パイロットたちが
炉心を遮蔽するのに成功したと思われていました。
恐ろしい間違い
が判ったのは、しばらくたってからでした。
________________________________________________________________________________

*2マイル(約3km)しか離れていないプリピャチからの消防士たちは、チェル
ノブイリでの防火訓練を一度も行ったことがなかった。

このヘリコプターはクレーンに羽根がひっかかり墜落した。ヘリコプターはパ
イロットを被曝から守るために鉛の板が運転席の下に置かれ、さらに鉛や砂、
コンクリートを運んでいたため、それらの重さで降下していた。
数百回に及ぶヘリコプターの飛行中に、一台は燃えている原子炉
の中に落ち、一台が近くに墜落しました。ガンマ線による被曝からパ
イロットを守るため運転席の下には鉛の板が敷かれ、それが余分な
重量を与えていたのです。ヘリコプターの乗員のための記念碑が墜
落場所に建てられ、モスクワにはチェルノブイリのパイロットのために
英雄的な銅像や記念碑がつくられました。ほとんどのパイロットたち
は急性放射性障害によって亡くなりました。

鉱夫たち
事故後の緊迫した数日間では、残りの炉心が建物のコンク
リートの床を溶かして地下水にいたる、「チャイナシンドロ
ーム」が危惧されていました。建物の基礎を安定させるため
のコンクリートを流せるようにするため、ウクライナの鉱夫
たちは主にハンドツールだけで原子炉の地下にトンネルを掘
りました。すでに爆発や上空から落とされた多量の鉛や砂に
よって損傷している構造物を壊さないようにするため、地面
を揺らす恐れのあるような機器は使用できなかったのです。
多くの鉱夫たちは放射線防護が不適切だったため死亡しまし
たが、その犠牲によりチェルノブイリは「チャイナシンドロ
ーム」を避けることができたのだと思います。

囚人たち
一時期、特別な鉱夫たちのグループが住んでいるホステルの近くに、
私は住んでいたことがあります。彼らは囚人たちで、危険の高い放
射線地区で働けば罪を軽減すると言われていました。科学者たちは
原子炉のある部屋の状態をモニターするために、原子炉と蒸気ター
ビン室の間の壁に穴を開けたかったのです。彼らは囚人たちにその
作業を頼みました。
私が彼らに線量計を付けようとしたら、そんなものは大事ではない
と言われ、放射能の危険性についても彼らには言うなと言われまし
た。それでも私は言いましたが。
熱爆発を避けるため、ドリルを冷やす水の代わりに化学的な冷却
材が使われました。その化学物質には毒性があり、放射能と同時に
浴びるといっそうひどくなるというものでした。ドリルの操作員を見ると
様子がおかしく、中枢神経に支障を起こしているのではないかと心
でした。

兵隊たち*
兵隊たちは、原子炉建屋に隣接するホールに破壊され散乱してい11
る放射性物質に汚染された蒸気タービンを片付けるように言われま
した。原子炉の中を巡回する水が、核分裂の熱で温められて発生し
た蒸気によってタービンは回されます。この機器は非常に放射能が
高く、兵士たちはタービンのある部屋に一分づつしか入れず、数秒
間働いて出てこなければなりませんでした。
*1986年5月に到着した予備兵たちのことは、見過ごされてきた。彼らの任務
に関する記録がなかったため、彼らの病状がチェルノブイリに関係するとい
うことを明示することができなかったのだ。米国政府が核兵器生産に携わる
労働者たちの健康データに対して行ったように、ゴルバチョフ大統領は全て
のチェルノブイリの健康データを極秘扱いにした。(CS)

政府の失敗 (キャシー)
緊急事態を収束する上で政府が優先したのは、情報操作と政治
的なダメージへの対処であった。周辺の住民たちや60マイル
(96km)離れた人口260万人のキエフの街に住む人々のパニックを
避けるために、10日間のニュースのブラックアウトは必要だったのだ、
と後に弁解している。ほとんど情報のない中で、多くの人々は自分た
ちを守るすべを知らなかった。2マイル(3km)離れたプリピャチでは
50万人が、そして最も被害の大きかったベラルーシの27の街と2697
の村では、1990年までに合計200万人が放射能に曝された。**
ニュースのブラックアウトにより、初期の段階で放射性ヨウ素の危険
性について認識していた人はほとんどおらず、それが子供たちの健
康被害に影響を与えた。4年以内に甲状腺ガンにかかる子供たちが
ウクライナ、ベラルーシ、西ロシアで急激に増加し、20年後の今日も
新たに増え続けている。
1986年のメーデーの祝日は事後発生後4日目にあたっていた。そ
のころにはキエフの人々はチェルノブイリの発電所が爆発した、とい
う噂を聞いていた。しかし市の職員たちは健康被害については否定
し、
** David R. Marples, 'Chernobyl's Lengthening Shadow', Bulletin of the 12
Atomic Scientists, (Sept. 1993) pp.38-43 
いつものようにパレードや屋外のイベントを遂行するように命じた。発
育期にあってより敏感な子供たちの多くがその日に被曝した。マスク
をしていた市民は警察官にそれを外すように言われた。
事故の原因はなんだったのか?
チェルノブイリの事故では技術的な面と人災の両方が原因とされ
ている。4号機は事前の安全認可テストが完了する前の1983年12月
31日に稼動を認められた。エンジニアを称える国の祝日と、政府の
五ヵ年計画の期限を守るために、稼働日が繰り上げられたのだ。通
常の賃金値上げではなくボーナス・システムであったため、労働者
や管理者の年一度のボーナスが、この期限に間に合わせることにか
かっていたのだ。
3年後、4号機の爆発はそれまで先送りにされていた安全テストを
行った時に起こった。そのテストは発電所が外部電源を喪失した後、
予備のディーゼル発電機が働き出すまで、惰性で蒸気タービンがど
れだけの間発電し続けるかを試すものだった。テスト当日の朝、その
地域の送電マネージャーは夜までテストを延期するようにと要請した。
そのため経験が少なく、テストの知識があまりない夜のクルーが仕事
につくことになった。
テストの条件として原子力発電の出力を非常に低く抑えることが要
求されたため、出力低下の際に起動するべき全ての安全装置が意
図的に解除された。低出力で原子炉は不安定になった。安定化さ
せるために制御棒が間違って出し入れされ、冷却システムに蒸気の
ポケットができ、正のフィードバック・ループが作られ、原子炉の出力
は通常の運転レベルの100倍に上がり原子炉は爆発した。原子炉の
設計者は低出力時に不安定になることは知っていたが、当然のこと
ながら意図的に安全装置を解除した場合の事故については予測し
ていなかった。
設計上の欠陥にも原因があった。例えば、RBMK型の原子炉には
外側に格納容器がなかった。欧米の原子炉には事故のときに放射13
性物質を閉じ込めるために、外側に格納容器がついている。1979年
におきたスリーマイル島の原子力発電所の事故では、ほとんどの放
射性物質は外に漏れなかった(全てではないが)。私たちとチェルノ
ブイリを訪れた元物理学教師のトム・エレンバッカーによれば、チェ
ルノブイリの事故が起きる何年も前に、外側に格納容器をもたない
RBMK型原子炉の危険性について、仲間と共にソ連の科学者に進
言していたという。科学者たちからの返事はなかった。
「チェルノブイリの遺産(Legacy of Chernobyl)」の中で、もし6年前の
セント・ピーターズバーグでのRBMK型の事故が隠蔽されず公開調
査されていたなら、RBMKプログラムはチェルノブイリ事故の前に廃
止されていただろう、とジョレス・メドヴェージェフは書いている。
メドヴェージェフは、ソ連の秘密主義と政府の体面へのこだわりが事
故の主な原因だったと考えている。
健康被害と農業被害
1990年までに60万人から75万人のリクィデーターたちがチェルノブ
イリで働き、5000人が死亡した。そのすべてがチェルノブイリの事故
に関係あると確定するのは不可能ではあるが。*ナタリアが私にくれた2001年の小冊子に載っている、死亡した504人のリクィデーターた
ちの平均寿命を計算したところ54.4歳だった。これは1986年当時の
ロシア人男性の平均寿命64.9歳より10.5歳低い年齢である。**
しかし多くの人々にとって、チェルノブイリによる健康への最も大き
な継続的脅威とは、セシウム137とストロンチウム90によって汚染され
た土地で育てられた食物を食べ続けることである。20年間にわたり、
多数の人々が汚染された肉、野菜、果物、きのこ、牛乳を摂りつづ
けている。アイオワ州(訳注:本州の6割強)と同じサイズの地域が、
300年から600年間農業には適さない地域となっている。チェルノブ
イリから60マイル(約100km)離れたキエフの200万人の市民は、食物
の品質について毎日心配しながら生活しており、プリピャチ川から流
れ込んでくる水によって汚染されたドニエプル川で泳いだり魚を獲
ったりもしている。寿命の最も長い放射性核種の中には、数万年間14
無くならないものもある。これらの物質からゆっくりと発生する放射線
は免疫システムを損ない、感染や病気に対する抵抗力を弱め、ガン
や心臓病、遺伝的な病気や異常を増加させている。チェルノブイリ
のこれからの被害者を前もって特定することはできないが、長期にわ
たる人々への被曝の影響は、喫煙による肺がんの死亡率のように、
統計的にみて確かなものである。
* David R. Marples, "Revelations of a Chernobyl Insider: An 
interview with Yuri Risovanny, "Bulletin of the Atomic Scientists, 
Dec.1990, pp.16-21 
** Gallery of Grief 1986-2001, Chernobyl Shield (in Russian) 
チェルノブイリとスラヴティッチ
チェルノブイリ原子力発電所を訪問する前日、私たちはキエフから
スラヴティッチへバスで向かい、そこで泊まってから翌朝発電所へ行
くことにした。スラヴティッチは人口2万6千人で、ナタリアが4年半働
いていた、もっと大きなプリピャチ市の代わりに作られた町だ。
チェルノブイリの四基すべての原子炉が2000年に停止されて以来、
現地の労働者たちは今何をしているか?ひとつは、1986年に原子
炉建屋を覆うために急遽建造したコンクリートの“石棺”の老朽化を
モニターする仕事である。暴風や地震によって石棺が壊れるようなこ
とがあれば、原子炉建屋内に溜まっているプルトニウムのチリが拡散
し、新たな緊急事態が発生する。推定1トンのプルトニウムと200トン
のウラニウムが廃屋に閉じ込められているというのに、新たな核爆発
は起こらないだろうと科学者たちは考えている。
“新石棺”によって古い石棺とそれに隣接するタービンホール全体
を 2008 年までにカバーする計画が立てられている。この巨大な建
物は放射性物質を遮蔽するものではないが、今後 100 年間風雨に15
耐えうることになっている。驚くべきことであるが、チェルノブイリを廃
炉にして残りの核燃料を取り出すには、おそらく 4 世代もの労働者
たちが必要とされるだろう。ひとつの核事故を部分的に修復するだ
けでも 100年もかかるのである!
国旗の黄色の帯で象徴されているウクライナの特産である穀物が
実っている風景の中を、スラヴティッチへとドライブした。ガタガタとゆ
れる車中からは電信柱の上に、キエフに向かって戻る途中のコウノト
リの巣が見え、車が巻き起こすホコリの上では黒や灰色のカラスたち
が舞っていた。「連中はスラヴティッチへの近道を知っているよ。」と、
ドライバーは言った。「ついて行けば、昼食までにむこうに到着する
よ。」
農家や柵や広告塔はほとんどなく、走行中の車も少なく、田舎の
風景は、私の想うソビエト集団農業のイメージそのものだった。柵が
ないことは「入るな、ここは俺のところだ」と「ここはみんなのもの」とい
う資本主義と社会主義の経済モデルの違いを強調していた。
黄金色の干草、ヤギを追う女性たち、農家の人たちを乗せた馬車。
長靴をはいた彼らの足が馬車の脇にあたっている。やはりウクライナ
の旗に象徴される大きく広がる青い空の下で、人々や馬車やバスは
黄色のベッドシートの上に置かれた小さなおもちゃのようだった。穀
物の豊富なこの国はソ連の穀倉地帯だったところだ。そこで私たち
は穀物と製パンについてのパン博物館を訪れた。ナタリアは博物館
の外で、農業工学科の学生時代になじみのあったトラクターの前に
立ち自分の写真を撮った。
スラヴティッチへ行く道すがら、ナタリアはマヤークのプルトニウム
工場やチェルノブイリ時代のこと、そして被曝からくる自分の健康問
題について話してくれた。以下の文章は英語で下書きされ、その後
ナタリアが訂正できるようにロシア語に翻訳されたものだ。翻訳をし
たのはキエフ出身のナタリア・ヴィソツカ博士で、キエフ大学アメリカ
比較文学の教授である。ナタリア・ヴィソツカ博士は私たちの旅の通
訳でもあった。スラヴティッチへのバスの中で、ナタリア M.はロシア
語で話し、揺れるバスの中でノートをとる20人のためにナタリア V.

が通訳をした。以下がナタリアの話の続きである。
チェルノブイリ以前 – 1957年キシュティム核惨事(NMの話)
チェルノブイリの事故が起きる以前に数年間、私は放射性物質によ
って汚染された土壌で農家がより安全に野菜や果物を育てるための
研究などで、博士号を取得しようとしていました。チェルノブイリよりだ
いぶ前に、私の生まれた市内にあるマヤークのプルトニウム生産施
設で起きた大事故のために必要とされる研究でした。
このキシュティ
ム事故の惨事は政府によって1989年まで32年間秘密にされていま
した。実験リサーチセンター(Experimental Research Center)で放射
線による環境への影響の研究員になるまで、ほとんどの人たちと同
じく、私も1957年の核事故については何も聞いたことがありませんで
した。キシュティムの惨事は放射性廃棄物のタンクの冷却装置が故
障して起こりました。熱が上昇し水が干上がり、廃棄物が濃縮して化
学反応を起こして爆発し、放射性物質を215マイルの帯状にウラル
山脈南東へ拡散しました。マヤークのプルトニウム工場と隣接した市
では避難・撤退が行われましたが、核兵器の開発が再開できるよう
に直ちに除染されました。一方、24村に住んでいた13万人の人々は
永久に避難させられたままになり、彼らの村は壊され埋められました。
家も、家具も、庭も納屋も家畜の柵もすべてです。被曝の危険につ
いても、なぜ家を離れなければいけないかも伝えられませんでした。
汚染は8000平方マイル(約20500平方キロ)で、217の村と27万人もの
人々に及びました。現在この地域は東ウラル放射能事故跡地(East 
Urals Radioactive Trace (EURT))として知られていて、場所によって
はストロンチウムによる汚染度が余りにも高く、農地としては数百年
間使用できなくなっています。18
キシュティム核事故での私の仕事事故が起きた1年後の1958年に、土壌や水、大気、植物や動物へ
の放射線の影響を研究するために、マヤークに実験研究所が作ら
れました。ここでの研究は秘密裏に45年つづけられ、放射線生物学、
放射線化学、放射線物理学、生態学の分野におけるソ連の第一線
の専門家を生み出しました。私はそこで10年間働き、キシュティム核
事故によって軽度とはいえ汚染を受けた土地のために、各種の植物
を研究しました。政府は汚染された土壌から、あまり放射性物質を吸
収しない作物を見つけることができれば、生産に繋がるかもしれない
と考えていたのです。
 チェルノブイリの事故が起きた時、私はモスクワのティミリヤーゼフ
研究所で放射線生物学の博士論文の審査を受ける準備をしていま
した。私の担当教授は事故の数日後にチェルノブイリに発ち、私は
予定されていた時に審査を受けられませんでした。不幸にも、彼は
チェルノブイリから帰ってきてすぐに亡くなり、その直後に私自身事
故現場に行くことになりました。私の研究は機密扱いで、政府のもの
になり、私でさえ自分の研究のコピーを持っていません。

パート2:「区域」内での暮らし 
チェルノブイリでの仕事の話をすると、「断ることはできなかったの
か?」とよく訊かれます。私は放射線生態学を学びましたし、生まれ
故郷はソビエト核兵器施設の中の町、それは初めて核爆弾が作ら
れたニューメキシコ州ロスアラモスのようなところです。
チェルノブイリ
へ行くというのは当たり前の義務でした。テロリストの襲撃があった世
界貿易センタービルに、ニューヨークの消防士たちが向かったのと
同じようなものです。30歳以下の妊娠適齢期の女性だけは、放射線
の危険があるためにチェルノブイリには行くことはありませんでしたが、
私は 1987年当時35歳だったので、「区域」内で 4年半の仕事を始
めました。
今日、チェルノブイリでの経験を戦争のようだったと語るリクィデー
ターに会うと、その人は 1986年か 1987年、陸軍が指揮していた頃
に働いていたのだとわかります。その期間は私たちも軍服を着て、
一兵士のようにこき使われ、移動には軍の車両を使いました。米国
陸軍のブーツを初めて見たのもチェルノブイリでした。アフガニスタ
ンから入ってきたもので、ソビエト軍と敵対していたムジャーヒディー
ンの民兵に提供されていました。
チェルノブイリでの最初の三日間は、私にとって心底憂鬱なもので、
涙を流し嘆いているか、それを堪えているかの日々でした。人手は
不足していて、マネージャーは 20日間勤務の 10日間休み、残りの
人は 15日間勤務の 15日間休みの 12時間シフトで働いていました。
何人かで一部屋を共有し、ベッドは二人で一つなので滅多に冷える
ことはなく、作業は落ち着く気配すらありませんでした。
アルコールは禁止されていて、発電所から半径18マイル(30キロ
弱)の立入り禁止区域への出入りの際に検査をされました。しかし、
程なくしてお酒はこっそり持ち込まれるようになり、手に入るようにな
ってからはお金のように使われました。
食料品を自分たちで買うこと
はできず、食事は散らかった広い部屋で、ベルトコンベヤーにお盆
を載せて運ばれました。チェルノブイリのリクィデーターがソビエト中20
家畜と同じやり方で食事をさせられていたというのはなんともこっ
けいな話です。
被曝が新陳代謝を促進するため、一日三食たっぷりと肉中心の食
事に、好きなだけチョコレートを食べていたにも関わらず、私たちは
いつもお腹を空かせていました。当時ソビエト連邦ではバナナは市
販されておらず、多くの人にとって真新しいものでした。ほとんどの
人が私とは逆に苦手だったので、友人たちからバナナをもらっては
「バナナを食べ過ぎると尻尾が生えてくるぞ」と言われました。
リクィデーターは、11の異なる標準時区域、世界の約半分にも及
ぶ広大なソビエト連邦の至る所から来ていました。10日間の休みの
間は、娘と母のいる自宅になんとか帰ろうと四苦八苦していました。
悪天候で何日も飛行機が飛ばず、椅子よりも人の方が多い為に(ホ
テルはない)、空港の床に皆寝ていました。キエフやチェリャビンスク
の空港の床で幾晩か眠り、我が家に帰ろうと飛行機を待てども、数
日後にあえなく引き返すしかあ
りませんでした。

見捨てられた町での労働
チェルノブイリの労働者のために建てられた町、プリピャチの全て
の住人が、避難によって悲惨な苦しみを負うことになりました。政府
は、住民に三、四日で帰れると伝えました。この上なく皮肉な約束で
した。避難民は、家族の記録、衣類を少しと、バスでの移動中に食
べる分だけの食べ物以外何も持たず、家族はバラバラになりました。
幼い子どもたちはある一カ所に集められ、年長の子どもたちはまた
別の場所に行きました。だれもが家族のことで気が狂わんばかりの
想いをし、中には数年間離ればなれだった人もいました。キエフに
あるチェルノブイリ本部近くのコンクリートの壁には、写真と「どなたか
——の所在を知りませんか?」という紙が貼られていました。21
「というわけで、学校は終わり。」 (CSのコメント)
1986年のプリピャチの人口は 45,000人を超えていた。皆チェルノ
ブイリの労働者の家族だ。発電所から 2 マイル(3 キロ強)のところで、
間には原子炉に冷却水を供給するプリピャチ川と低湿地が広がって
いる。
事故当日の夜、住民たちは燃える原子炉の青い閃光を窓から目
にしていた。プリピャチでは屋根や屋上が被曝した住宅もあり、特に
甲状腺に蓄積される放射性ヨウ素にさらされた。大人よりも小さな子
どもの腺は、最も影響を受けやすく、チェルノブイリ事故後に幼児の
甲状腺ガンは爆発的に増え、放射線との関連を否定していた者た
ちは口を閉ざした。
一般の人が浴びても問題ないとされる放射線量の上限を、事故以
前の 10倍に暫定的に引き上げるというソビエト厚生省の決定によっ
て、チェルノブイリ事故から最初の数日間の被曝は深刻なものにな
った。ジョレス・メドベージェフ ∗
事故から三日後、数百台ものバスの護送車に乗せられ、プリピャチ
の人々は避難した。ある学校の黒板には 1986年 4月 26日に生徒
たちに向けられた教師の最後の言葉が何年も後になって見つかっ
た。「というわけで、学校は終わり。」
は『チェルノブイリの遺産』の中で、こ
の数値の引き上げは汚染された食べ物の販売を合法化するための
ものであったと述べている。リクィデーターの外部被曝の放射線量の
上限も、同じく独断的に引き上げられたとナタリアは言っている。
事故から三日後、数百台ものバスの護送車に乗せられ、プリピャチ
の人々は避難した。ある学校の黒板には 1986年 4月 26日に生徒
たちに向けられた教師の最後の言葉が何年も後になって見つかっ
た。「というわけで、学校は終わり。」
クイシトゥイムの惨事の存在をソ連当局が認める何年も前に、ソビ
エトの生物学者メドベージェフは、事故の実態を暴く証拠を公表して
いた。

ナタリアの物語は続く
プリピャチからの避難民はキエフに無償でアパートを与えられ、そ
のことは何年も政府のアパートの順番待ちしていたキエフの人々の
怒りを買いました。新参者の家の窓は割られ、車は壊され、子どもた
ちは暴力を浴びせられました。精神的なストレスと被曝もまた健康に
影響を及ぼし始めていました。避難民には「やらせ仕事」があてがわ
れました。プリピャチから来た簿記係はほとんど何もせずに座り、隣
では別の簿記係がせっせと働き、二人とも給料をもらう、といった具
合に。結局プリピャチから来た人たちの為に新しい収容施設が建て
られ、移転の費用は政府がもちました.
しかし、1987年に私が訪れた時には、プリピャチは見捨てられた町
でした。高層住宅、大きな広場、高いビル、競技場、様々な店が略
奪の影を残しつつ、ただあるだけでした。当局は、持ち物を取りに
人々が帰ってくるのを避ける為に、財産はすべて埋めてしまったと偽
って伝えました。実際のところはというと、盗まれなかったものは一年
以上放置され、私が行ってから二ヶ月を過ぎた頃ようやく処分されま
した。
1987年の秋に、オジョルスクの科学者たちによって地域ごとの汚
染状況を示す地図が作られ、当局はチェルノブイリから半径18マイ
ル(30キロ弱)圏内を永久に人間の居住を禁止する「立入り禁止区
域」とせざるを得なくなりました。およそ 1,000平方マイル(2,590平方
キロメートル)に及びます。地図はまた、汚染の程度によって葬り去
る村を選ぶ指針にもなりました。ビルや住まいだけでなく、それにとも
なう果樹園、菜園、農耕具など村全体が、事故現場から出たゴミと共
に、チェルノブイリを囲む約 800ヵ所もの廃棄物のための塹壕に埋
められました。プリピャチ、またチェルノブイリの町では、ビルは立ち
並んだままにされました。

中止となった1986年のメイデーの休日から 18年経ったプリピャチにたた
ずむ錆びた観覧車。
その日までにほとんどの人々は何キロも続くバスに護送されて街を去っていた。

プリピャチでガイドをしてくれたリマ・キセリツィアが、下の写真のバンパーカ
ーの脇の草むらで、高い放射線量(1259マイクロレントゲン毎時)を計測し
た。

悲しい体験
1987年、私たちオジョルスク放射線生態学研究室の科学者およそ
20人は到着して、植物を調べる為に環境除染と再耕作の部門を立
ち上げました。既にあった 10エーカーの温室を使い、もぬけの殻と
化していた幼稚園を事務所にしました。
除染して使う机や家具などを探しながら幼稚園の中を歩いていて、
その贅沢な内装に驚きました。床には中国製の絨毯が敷かれ、寝
室は部屋に合わせてカーテンとベッドカバーが設えてあり、おもちゃ、
視覚教材やゲームがそこら中にありました。シーツと枕カバー、タオ
ル一式、エプロン、ドレッシングガウンが綺麗にたたまれて積み上げ
られていました。並べられたスリッパにはそれぞれの持ち主の写真
があり、私は心から悲しくなりました。何かしらの奇跡が起こり、この
幼い持ち主たちの命が助かっていることを願いました。
別の部屋では、檻の中でしわくちゃになった空のプラスティックバ
ッグのようなものを見つけました。ハリネズミのとげとげの皮でした。
次に、中で羽が散らかっている鳥かごを見つけました。ハツカネズミ
に食べられたようでした。夏の太陽が窓越しに輝き、後悔と悲しみの
念が波のように押し寄せ、私を飲み込んでいきました。まるで中性子
爆弾の爆撃を受けた後の戦
場のようでした。中性子の放射線は生命を絶やし、人の所有物には
指一本触れません。
お昼寝部屋の一室では、弱り切った犬が子供のベッドに横たわっ
ていて、そのベッドでしか寝ていないようでした。わたしの方へ這っ
てくることも困難なこの哀れな小さな生き物の世話を、そのベッドの
持ち主の子どもがしていたのかもしれません。犬のあまりの状態に心が打ちひしがれました。四本の脚には毛が全く生えておらず、肉か
らは出血しており、瞳は濁っていて、口から唾液がしたたり落ちてい
ました。放射能で汚染された草地で事故以来ずっと狩りをしていた
ためにベータ放射線による外部被曝による火傷をしていて、もぐらや
地ねずみを口にしていたために、おそらく内部被曝もしていたようで
した。病院の中で用具や備品などを探している時に、もう一度その犬を見ました。死んでいました。体は腐っておらず、ミイラ化している
ように見えました。放射線の影響だろうと思われます。子どもたちの
病室のベッドで最後を迎えたこの悲劇的な小さな命は、死ぬその瞬
間まで子どもたちに献身的でした。

ある時、幼稚園でテーブルに触れると突然痛みが親指に走りまし
た。おそらく最初のリクィデーターたちの皮膚や肺を傷つけた「ホット
パーティクル」(訳注:高濃度の放射能)だったと思われます。私の指
は腫れて、青くなり、後に皮がなくなりました。

温室と汚染されていない食べ物
プリピャチでは、それまでと同じように植物に与える放射能の影響
を調べました。けれども、私たちが使っていた温室の屋根はひどく放
射能汚染されていて、私のガイガーカウンターでは 200mR/hr*
汚染を最小限度におさえた作物を育てることを目指し、育っていく
過程で放射能汚染が最小限となるものを見つけようと、およそ 200
種類の異なった植物を調べました。
を示
していて、仕事を始められる状況にするには、まず除染をする必要
がありました。
また、料理をする人々に汚染をできる限り抑えるようにと忠告しまし
た。例えば、汚染物質は植物の中に均等にあるわけではありません。
放射性汚染物質は根に最も集中し、続いて茎、葉、花という順にな
っています。キャベツと人参は中心に汚染物質を蓄えるので、洗っ
て皮をむいたら真ん中を捨てるといいのです。土壌の化学特性もま
た汚染の集中に影響を及ぼします。例えば、酸性の土では、放射性
ストロンチウムとセシウムの吸収が強まります。
肉は骨(ストロンチウムとプルトニウムが集中している)を取り除き、
酢の溶液に漬け、液は捨てるようにと忠告しました。魚を食べなくて
はいけない時は、頭を最初に取り除き、揚げるか焼くようにし、決して
茹でないようにとも伝えました。茹でることで骨の中の放射性ストロン
チウムを身にしみこませてしまうからです。果物は事故後の一年は
食べられます。まだ雨によって土壌の汚染が根まで届いていないか
らです。それ以降は果物も同じく汚染されました。見捨てられた果樹
園には、巨大なハツカネズミや猫ほどもあるドブネズミが腐った果物
を食べながら暮らしていました。

*
200mR/hrとは、ミリレントゲン毎時を表し、放射線を計る単位。
ニューメキシコの私の家で測った0,0287mR毎時という自然界に元々
ある放射線レベルのおよそ7,000倍に相当する。(CS)
捨てられた村落の家で暮らしていたある夜、一匹の巨大なドブネ
ズミと目が合って、目を覚ましました。床に立って前足がわたしの枕
に届くほどに大きなネズミでした。振り返り、走って逃げましたが、そ
の後は金槌を持って眠りにつきました。数日後、ソファベッドの中に
子ネズミたちを見つけ、例の母ネズミを捕まえる罠をしかけることにし
ました。しばらくして、友人と家に帰ってきて、中に入ったものの電気
がつきませんでした。ローソクを見つけて点けると、母ネズミの尻尾
が罠にかかっていました。友人がネズミを片づけた後、そのネズミが
暗がりの中で白熱電球へのコードを食べていたのだとわかりました。

「区域」内での労働
私たちの班は、最も汚染がひどかった領域である半径 18マイル
(約30キロ弱)の立入り禁止区域内の土壌、水、雪、樹、灌木などの
サンプルを何百も集めました。冬場働くには衣服が足らず、幼稚園
にあった毛布を切ってスカーフ、手袋、帽子、チョッキなどを野外作
業用に特別に作って補いました。綺麗な新しいブーツなどほとんど
なかったので、ビニールテープをブーツに巻きつけて使いました。
ある仕事で、長いクレーンのあるトラックを使って何百個もの松ぼっ
くりを集め、それぞれ樹に生えていた高さに分けて箱に入れていき
ました。手袋をつけずに働くこともひんぱんにあり、土壌のサンプル
を掘りだして乾かしたり、灰の中の放射能を計測する為に植物を燃
やしたりしました。分析可能な量以上の植物のサンプルを集め、一
軒の廃屋に保管していましたが、それの放射能が強くなり過ぎてしま
い、その家は壊して埋めるほかなくなってしまいました。立入り禁止
区域でのサンプル集めから家に帰ってくると、具合が悪くなることが
度々ありました。
ここで、我々の放射線探知機についてお話したいと思います。そ
れを身につけている人自身は被曝量を確認することができず、仕事
を終えた後に放射線の専門家によって確認されます。

2002年の国際連合の報告によると、チェルノブイリの事故によって避難を余
儀なくされたのは、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの 226の村落で、35万人
を超えていた。2000年の時点で、550万人もの人々が 1平方キロメートルあ
たり 1キュリーかそれ以上の汚染をしている地域で暮らしている。(キュリー
については 57ページを参照)

どれほどの線量を浴びていたのか、私たちは教えてもらえませんで
した。低線量の外部被曝を記録するカセット線量計も使っていました
が、どの場所から離れなければならない程の高い放射線が出ている
かを知るには、計れる線量の上限が低すぎました。働き始めてから 4
年半の間は、仕事中ポケットに入れておき、どれだけの被曝をした
のか本人が直接確認できるペンシルという線量計を一度も目にしま
せんでした。自分たちでその場で検知できる線量計がなかったため
に、高濃度汚染の場所を避ける術がありませんでした。当時は外部
被曝にばかり気をとられていましたが、実際どれだけの放射線量の
内部被曝をしていたのでしょうか?それはきっと私たちの死後に初
めて解明されるでしょう。
プリピャチでの仕事を始める際に、まずそれぞれの温室の放射線
量を地図にしました。放射能の影響下のもとで、人々がそれぞれの
場所で安全に働ける時間を推測するためでした。地図ができあがる
と、放射線安全局に私の計測結果を見てもらいました。私の調査し
た地図は彼らの手に渡りましたが、なぜかそのまま紛失してしまいま
した。再び調査をした私は、今度は地図を 2枚作成した上で、もう一
度放射線安全局に検証を頼みました。

さらに、24時間に渡って私たちが自分たちで計測できるようにペン
シル線量計をもらえるようにも頼みました。私の地図は無視され、線
量計の要望は拒否されました。また、もし私が再びそれらのことを蒸
し返すようなことがあれば、その時は「しかるべき対応」があるとも言
われました。そこで私は温室の最も汚染度の高い場所には壊れた
鉢の破片を置き、暖房の配管にはチョークで印をつけることで近寄
ってはいけない場所を示すことにしました。

四つ足の被害者
事故後 2,3年のうちに、ベラルーシ、ロシア、ウクライナの汚染地域
から 350,400人を超える人々が移住を強いられました。
残されたの
は、何千頭もの家畜たちでした。羊、牛、犬は森へと行き、犬たちは
土着の狼と交配しました。野生の暮らしにおいて、狂犬病は当たり前
のものでした。狂犬病にかかった狐と犬に襲われたという被害届が
出ていました。アヒルとニワトリが誰もいなくなった村々を我がもの顔
に歩いていました。小屋に繋がれたままであったり、とり残された動
物たちは時にむなしげに、時に悲しげに、また時に荒々しく助けを
求めて叫んでいました。こういった動物を殺処分するために送られた
兵士たちは、飢えて狂乱した生き物と遭遇しました。悲しいことに、
ほとんどは撃ち殺され、埋められました。毛皮の除染は難しく、また
汚染されたものを食べていたことから肉も汚染されてしまっていたか
らです。怯えた牛たちはヘリコプターで誘導して、鉄条網の柵の囲
いに押し込みました。わたしたちは、放射能が血液、肉、毛皮にどの
ような影響を与えるのかを研究するために、この牛たちを入れる実験
的な農場をつくることにしたのですが、忘れることのないある日の午
後、群れすべてを失いました。注射器がなかったために、雄牛を落
ち着かせることができずにいたら、一頭が突然逃げ出し、柵囲いから
飛び出しました。すべての牛が後に続いて出ていき、逃げてしまい
ました。また一から大々的に駆り集めなければいけませんでしたが、
結果としてこの仕事が発展し、大規模な動物実験の基礎を築くこと
になりました。35
ある晩、暗やみの中を満員になった小さなザポロージェツを運転し
て家路をいくと、ヘッドライトの光の中に一頭の野生のイノシシが現
れました。止まれずに衝突し、車をへこませたイノシシは、道路脇に
横たわっていました――そう思っていました。車から飛び出した私た
ちは、ぶつかった前部の損傷を調べ、結局少し後ろを走っている局
長のジグリが来るのを待つことにしました。待っていたのはイノシシも
同じでした。飛び上がったイノシシは、二台目の車の運転席に突っ
込み、へこませました。勝者が誰かはっきりしたところで、わたしたち
は手負いの車に戻って、よろめきながら帰りました。機械と獣の間の
深夜の戦いは、獣のものでした。
放射性森林
松の木、特に春に育つ時期のものは、いとも簡単に放射能に殺さ
れてしまいます。事故後、チェルノブイリの周りにあった何百平方マ
イルにも及ぶ松林は枯れ、その針葉は赤く変わり、赤い森として知ら
れるようになりました。松や、他の常緑樹は一年中その針葉をつける
ため、冬が来る前に葉を落とす落葉樹よりも多く汚染を蓄えました。
科学者たちはまず、赤い森に防水剤をかけて風や雨で塵や葉につ
いた放射性物質が拡散しないように進言しました。しかし、最終的に
赤い森は切り倒され、埋められることになりました。私はその仕事に
関わりました。
この仕事はとてもきついもので、マスクを着けていたにも関わらず
放射性の塵を吸い込んでしまったことから、この作業は私たちの健
康に深刻な影響を与えました。多くが体験した被曝の症状は、頭痛、
嘔吐と吐き気、悪寒、発熱、失神、衰弱と眠気でした。
第二次大戦時のチェルノブイリの松林についての興味深い話があ
ります。ヒトラーの軍隊がチェルノブイリを侵攻していて、ソビエトの遊
撃兵たちは通過するドイツの一団に待ち伏せ攻撃をするために、道
路に沿って森に隠れたのです。最終的には、ドイツ軍は道の側の
木々を皆伐採し、戦後に松は植え直されたのです。
プリピャチを思い出して
私たちの部局で働いていた人たちの多くは事故後にプリピャチか
ら避難してきていました。一年後、仕事の行きと帰りのバスで、彼ら
のかつての家の前を通り過ぎました。バルコニーには乗り手を待つ
自転車、干されたままの洗濯物、そしてカーテンは、人が住んでいる
アパートのように建物を見せていました。
私は、プリピャチの捨てられたアパートに残されたものの一覧表を
作る班に入っていました。ソビエトの警察や国家保安委員会の職員
は、私たちがリスト作りと梱包を終えた後に、お金、書類、貴重品の
管理のために同行してくることになっていました。とても除染が難し
い毛皮のコートとカーペットは切り裂かれ、クリスタル・ガラス製品は
粉々にされ、略奪者の手に渡らないようにされました。しかし、つるり
とした表面の電化製品は、被曝をしてもその物が必ず放射能を帯び
るわけではないので、洗って除染することができました。
プリピャチの主要な上水道が止められるまで、避難時の混乱で蛇
口が開いたままにされ、水浸しになったキッチンと風呂場が二、三あ
り、また窓の近くの壁からは雨と雪で湿った壁紙がたわんだ紐になっ
てぶら下がっていました。
チェルノブイリ原子炉は、毎年恒例の五月祭の五日前に爆発し、
一年半の間閉ざされていたアパートは、一年以上も電源が切られた
ままの冷蔵庫から漏れ出す悪臭とともに私たちを迎えました。ネズミ
の集団はいたるところに現れ、カウンターに腐って乾燥した食べ物
がある幼稚園の台所のカーテンからドスンと落ちてきました。時には
目についたものに思わず悲しくなり、涙しました。子どもたちのベッド
やおもちゃ、人々の笑顔の写真で覆われたリビングの床、それらを
無視することも、そのまま歩き続けることもできませんでした。
目録作りを終え、放射能班がテレビなどの家電製品の汚染を計測
しました。汚染に問題がない電化製品を持ち帰って使ったこともあり
ました。最後に、全ての班がリストアップした街全体のすべての物の
算出された価値を合計して、避難した家族の数で割りました。37
どの家庭も同じ額を支払われました。若い家族にはありがたい話
でしたが、高級な家具や肖像、毛皮などを持っていた家族にはひど
い話でした。最終的に、兵士たちの手によって汚染された多量の所
有物はシーツに包んでまとめられ、放射能を帯びたテレビ、ベッド、
マットレス、自転車、家具と共に窓から軍用トラックに投げ捨てられ、
街の外まで運び出され、堀に埋められました。
泣き叫ぶバス
こういったアパートの前を通り仕事への往復を毎日していたので、
窓から兵士たちが物を投げ捨てるのを目にすると、バスに沈黙が時
として不意に訪れました。自分たちの家具が歩道にわびしく横たわ
っているのを見て、女たちは泣き叫び、男たちは肩を落としました。
ほどなくして、私たちのバスは「泣き叫ぶバス」として知られるようにな
りました。
空っぽでむき出しにされたアパートの建物は心からの非難でいっ
ぱいのコンクリートの箱と化しました。プリピャチ、かつては活気に満
ち溢れていたその街は、あっという間に永遠の沈黙の中に落ちてし
まいました。夜、漆黒の道を私たちはバスに乗り、十二階建ての建
物群が死者を弔う「墓石」になった墓地のようなその街を通りました。
慎重に高く張り巡らされた有刺鉄線がプリピャチの街を囲い、略奪
者が中に入ったり、汚染された物が外に出ることを防いでいました。
しかし、守衛が賄賂で買収され、その囲いは破られました。幾千もの
放射能を帯びた物品がプリピャチから持ち出され、無知な買い手の
家にいくことになりました。
一覧表を作る仕事が始められるしばらく前までは、住民は汚染され
ていない持ち物を取りに、プリピャチに帰ることを許されていました。
しかし、彼らが街を離れる際にときおり、持ち帰るには汚染度が高す
ぎると守衛は嘘をつきました。欲しいものを手に入れるためのかけひ
きでした。嘘を見破った持ち主は、しばしばその場でその持ち物を
破壊し、守衛がそれらをくすねることを許しませんでした。しかし、当
時ソビエト連邦では多くの日用品が不足していたので、放射能汚染38
があるにも関わらず、生活必需品を手に入れて売りたいという人々
の衝動がとても強かったのです。

ある犬の話
同じバスに乗っていたある女性が、ボートで川を上ってチェルノブ
イリの街を離れようとした彼女の家族の話をしてくれました。当局は、
彼女の家族が飼っていた犬の毛皮の汚染度が高いことを理由に、
その犬だけはボートに乗せることを許可してくれませんでした。家畜
の牛を解体して、地下の野菜貯蔵室に犬のために肉を置いておき
ました。しかし、船を出すと犬は水の中に飛び込み、泳いで後を追っ
てきました。彼女は泣き出し、戻るように叫びました。しかし、哀れな
声で吠えながら犬は泳いで追ってきました。ついに力つき、この忠
実な動物は沈み、見えなくなりました。

プリピャチ最後の住民
1988年、プリピャチ川に注ぐ地下水に含まれる放射性核種と放射
能を帯びたゴミの投棄場を観測する副管理者としての仕事を始めま
した。粘土土壌における粘土粒子の表面に凝固させることで、汚染
された水から放射性核種を取り除く研究をされていたカザン大学の
コペイキン教授は、特に危険な廃棄区域からの水のサンプルを必要
としていました。この区域はあまりにも放射能が強く、トラックはある程
度離れた位置に荷を下ろし、遠隔操作ができる特殊な車で押して廃
棄物を穴に落としていました。コペイキン教授と私は、水のサンプル
を入れられる容器を探しにプリピャチの放棄された病院に行きました。
建物のセキュリティシステムは解除してあったのですが、正面玄関の
ドアに南京錠がかかっていたので、窓をくぐり抜けて中に入らなけれ
ばなりませんでした。ちょうどいい大きさの牛乳を入れる缶を見つけ
たのですが、その中には想像しうる限り最も悲しいものが入っていま
した。このことについては、チェルノブイリを去ってかなりずいぶん後
まで、数年間も誰にも話しませんでした。

缶の中には、チョコレート色の「ミイラ」化した胎児たちが目を閉じ、
腕と脚をたたまれて入っていました。約 4ヶ月から 8ヶ月目の胎児た
ちではないかと思いました。この光景にコペイキン教授は吐き気を催
し、私はひと言も口を開かず、沈黙していました。「あなたは女性な
のに、よくこんなものが見ていられますね?」という彼の質問に対して、
適切な答えを私は持ち合わせていませんでした。ただ、あまりにも多
くの悲劇、病気、仕事、苦難、悲話、失望を経験した私の脳は、新た
な衝撃を無視するようになってしまっていました。願わくば、この子た
ちは出産以前にもう死んでいたのであってほしいと思いました。後に、
手術室でもっと幼い胎児たちを教授が見つけました。放射能によっ
て、一年半以上経っても腐敗していませんでした。事故に伴い、奇
形児や病気の子どもを産まないために、当局は妊婦たちに中絶を
勧めていました。

男、女、関係
放射線生態学について教えていた私は、たびたび放射能が健康に与える影響について訊かれることがありました。男性は、生殖能力
に影響はあるのか、またウォッカを飲むことで体内の除染が促進され
るのかといったことを知りたがりました。
*
一人の女性に 1000人の男性という比率でしたので、チェルノブイ
リでの暮らしは女性にとって難しいものでした。ある時期においては、
高い環境放射線レベルの影響で、年配の女性も含めて性的衝動が
強くなるようでした。中には、私たちが「勤務時間家族」と呼ぶ、任務
を共にする間カップルになる男女もいました。こういった関係の中に
は、立入り禁止区域内での仕事が終わるまで続いたものもありました。
*
女性は、卵子を作り出すための細胞分裂を生まれる以前に完了して
いるのに対して男性は、精子を作り出すために、生涯にわたって細胞
分裂を繰り返す。分裂する際が最も細胞は放射能の影響を受けるため、
男性はこの点において女性と比べ、約 1.5 倍も放射能の影響を受ける。
(CS)
当局は、勤務時間家族がストレスを軽減すると考え、ホステルにプラ
イベートの個室を与えました。
しかし、チェルノブイリは多くの結婚を破壊しました。立入り禁止区
域で二、三年いた後、多くのリクィデーターが神経系に問題を抱え、
抑鬱状態は特に男たちをアルコール依存症にしました。酒浸りの
日々は妻と家族を遠ざけ、後に待っていたのは離婚でした。

1990年以降ロシアには、娘と私を含むものすごい数の人がソビエ
ト連邦の崩壊に伴った貧困に落ち入るという別の絶望もありました。
チェルノブイリの恩給の支払いはしばしば遅れ、この時点で政府に
よる社会事業は破綻していました。
チェルノブイリの決算書の最終行は、巨額の公衆衛生費用
免疫系の放射線障害によって、人々は風邪や伝染病、ガンを含む
慢性疾患に感染しやすくなりました。多くのリクィデーターたちと同じ
く、私も「チェルノブイリネックレス」を「身につけて」います。甲状腺手
術によってできた喉の下の方にある傷跡です。
*
チェルノブイリで働
いている間、ろれつが回らなくなる、記憶がなくなる、平衡障害を起
こすといった経験をしました。上司の一人と私は、お互いの物忘れ
がひどかったので、約束や期日について確認し合うようにしました。
しばらくの間、ひどい健忘症に悩まされていたので、母に送った手
紙を読み返して記憶の穴を埋めていました。
*
チェルノブイリ事故後に蔓延した子どもたちの甲状腺ガンは、放射
能との関係の是非を問う論争を最終的に終結させた。ロシアの医学会
は1997年までは、放射能をいかなるガンの原因としても認めること
はなかった。(CS)
事故の被害を受けたこういった子どもたちの中にはガン治療の影響で、毛
髪が抜け落ちている子もいる。また、先天的に奇形であったり、知的障害が
あったり、そうでなくとも虚弱な免疫系のために劣悪な健康状態で生きてい
かなければならない子もいる。原子力を支持するものたちは、原子力災害に42
よる健康被害が世代間にわたる、という特異な可能性があることを認めなく
てはいけない。
「科学に犠牲はつきもの
だ。」1989年にソビエト
国立原子力利用委員会
の議長を務めていた A・
M・ペトロシアンがチェル
ノブイリの死者数につい
て意見を求められた際
の言葉である。この格言
の落とし穴は、犠牲にな
る者たちは誰によって選
ばれるのかということだ。
ペトロシアン議長は自分
の子どもを「科学のため
に」犠牲にするだろう
か?(CS)

ソ連水爆の父として知られるアンドレイ・サハロフは、大気圏内での核兵器
の実験が健康に与える影響について、このように語っている。「想像力の極
端な欠如によってのみ、後世の人々の苦しみと同時代の人々の苦しみを分
けることができるのだ。」(『核爆発によって生じる放射性炭素と敷居値のな
い生物学的影響』Radio Carbon from Nuclear Explosions and NonThreshold Biological Effectsより)

チェルノブイリの恩給をもらっていた何千人ものロシア人リクィデー
ターは、2005年 1月に大打撃を受けました。「マネタイゼーション」と
呼ばれる緊縮財政計画の一環で、チェルノブイリの一連の恩給は、
現金支払いに変わり、ほとんどの受給者の医療費はもう保障されな
くなりました。一方で、同じく経済が低迷していたウクライナですが、
ウクライナ人リクィデーターたちの恩給は増額されました。チェルノブ
イリ事故の影響を最も強く受けた三国の中で、ウクライナがリクィデー
ターに対する最も手厚い援助をしました。ソビエト連邦からの独立を
求めた 1991年の論争で、ウクライナが強調したのはチェルノブイリ
事故の後遺症へ熱心に取り組むということでした。

プリピャチ、春、2004年(CSのコメント)
2004年6月に FOCCUSとしてプリピャチを訪れた時、道路に覆い
かぶさるように伸びた樹々の枝の下を、のろのろとバスで進まなくて
はいけなかった。通りは森に飲み込まれた路地と化していた。もぬけ
の殻となったアパート、歩道に飛び散ったガラス片、そしてついに開
催されることなく 18年以上経った今もまだ五月祭の雑踏を待ち続け
ている観覧車、プリピャチは文明の行き着いた後の世界の雰囲気を
まとっていた。
除染されなかった倉庫の中に積み上げられた 6フィート(約1.8メ
ートル)の肖像画に描かれた、遠い昔のソビエトのリーダーたちが壁
に立てかけられていた。外交官のアンドレイ・グロムイコもいた。アル
ミのハンマーと鎌、CCCP(ソビエト社会主義共和国連邦)の文字が
描かれた赤いビロード地の投票箱が床に転がっていた。託児所に
は緑色の車体に赤い星が描かれたソビエトの戦車、人形、ぬいぐる
みなどのおもちゃが散らばっていた。
15 年前にナタリアがひんぱんに出入りしていたプールに立ち寄り、
壊れた壁の前で彼女の写真を皆が撮った。壊れた窓越しに高い方
の飛び込み台が身を乗り出しているのが見えた。プールは今では、
進軍し続ける緑の軍隊によって落とされた葉っぱで徐々にいっぱい
になっていた。この軍隊はプリピャチを空からも侵略している。10フ46
ィート(約 3メートル)の苗木(風散種子は影も形もない)が、アパート
の 8階の瓦礫から伸びていた。
別の建物では、汚染された瓦礫と埃をくぐり抜けながら 16 階まで
上った。どの階でもエレベーターのシャフトが私たちを待ち受けてい
て、今はなきドアの一歩先にある暗やみを「いかがですか?」とでも
言わんばかりに手招いていた。自分たちが歩いてたてる放射能の塵
を吸い込まないように、ナタリアはハンカチで口と鼻をふさぎ、私も同
じようにした。他の者たちは彼女の見習うべき行動を無視した。目に
見えず、音も立てず、味も匂いもしない、触ることもできない、そのよ
うな脅威に反応するというのは難しい。
アパートの屋上に上がると、プリピャチがぐるりと広がっていた。半
分は森に埋もれていた。近くには、チェルノブイリのおなじみの赤と
白の煙突が、原子炉という「亡骸」を覆う石棺の上に突き出ている。
20万人のリクィデーターが危険な放射能レベルの中、昼夜働いて
作り上げた石棺は 1986年11月に完成した。政府は、事故はもう収
束したといち早く世界に発表したいがために建設を急ピッチで進め
た。
石棺は 30年間保つように設計されていたが、1991年までにはコ
ンクリートにヒビが入っているのが明らかになった。近年では、いくつ
かの国が「新しい設備」と呼ばれる第二の封印を作るための資金援
助をしている。この「人工建造物史上最も大きな動く構造物」は、飛
行機ハンガーのような形になる予定で、机上で見る限りスタートレッ
クの宇宙船団全体を収納するのに十分な大きさだ。内部で雲が(星
は無理でも)形成されるほど高く、全天候対応にもかかわらず放射
能を漏らさずに閉じ込めることはできない。この建造物の役割は、む
こう 100年の間作業員を守ることだ。100年というのは、モスクワのク
ルチャトフ研究所のコンスタンティン・チェチェロフ博士よれば、核燃
料が取り出せる状態に冷えるまでに必要な時間だ。それは一つの原
子力事故の廃墟のあくまで一部を片づけるのに四世代もの作業員
が必要であることを意味している。石棺の周りは未だに放射能が強
すぎるため、その場で建設作業をできない。この「新しいシェルター」47
は、200 ヤード(約 180m)ほど離れたところでモジュールを組み立て、
可動式の基礎の上をスライドさせ古い石棺を覆うようにする予定だ。
広島、長崎、プリピャチ、チェルノブイリ
第二次大戦の終わりに、戦争のための核テクノロジーは広島と長
崎を破壊した。「平和な核」はチェルノブイリ(18,000人の人々)と「プ
リピャチ」(45,000人の人々)を破壊した。広島と長崎の多くの住民は
原爆の熱と爆風による激しい苦痛の中で命を落とし、それ以上に多
くの人が、ゆっくりと時間をかけて放射線誘発疾患に蝕まれ死んで
いった。チェルノブイリ事故の被害者たちははるかにゆっくりと命を
奪われていった。放射線によって損傷した遺伝子を受け継ぐことで、
世代をまたぐことさえあった。しかしながら、長崎と広島は再建され今
では近代的都市になったが、プリピャチとチェルノブイリにはきっと二
度と人が住むことはないだろう。プリピャチとチェルノブイリ、そして何
百もの小さな村々は「原子力エネルギー犠牲地区」の認定をされる
のだろうか?ひょっとしたらそうなるかもしれない。人は忘れない、チ
ェルノブイリの死者たちについて意見を求められて「科学に犠牲は
つきものだ」と言い放ったソビエト国立原子力利用委員会の議長A・
M・ペトロシアンを。これは失われ、破壊された数々の命を正常な習
熟曲線の一部として見ている態度である。
全員でないのはもちろんだが、多くのアメリカ人にとって広島と長
崎は私たちの歴史の汚点である。ソビエトの歴史においてチェルノ
ブイリは、ソビエト連邦を破滅させたとどめの一撃と言えるほどの衝
撃を持っていったと歴史家は指摘している。仮にそうであるならば、
経済と健康における損失であると同じく、チェルノブイリは重大な政
治的事件であった。48
私の娘、私の看護士(ナタリアの物語のしめくくり)
1992年 1月、オジョルスクにあるプルトニウム製造工場マヤークで
設計エンジニアとして働くべく帰ってきた私は、それから程なくして
病気になりました。医者はチェルノブイリでの 4年半が原因だと考え
ました。しかし、1991年の母の死、貧困、母のアパートを維持するた
めの訴訟もまた私が疲弊していくのを助長しました。1994年にキエ
フの病院で臨死体験をしていた時の私はどん底でした。今でも覚え
ているのは、手術台の上にいたとき、私以外の人も証言するように、
長く続く眩しいトンネルの中に私はいました。腕と脚をそろえて虹模
様の壁を通り抜け、トンネルの奥の方へと飛んでいきました。もしこれ
が死というものなら、そんなに悪いものではないじゃないかと思いま
した。しかし、その時、娘のナージャが私に向かって叫んでいるのが
聴こえました。彼女の声は、命からの旅立ちを止める呼びかけでした。
意識を取り戻すと、医者たちは私を蘇生させようと必死で、私が死
にかけたことに怒りと恐怖を感じているようでした。
病院の責任者は私に、翌日に帰宅するようにと言い放ちました。そ
うしましたが、あまりにも衰弱していた私は手と膝をついて這いつく
ばりたいと思うほどでした。その日からというもの、働くことはできず、
病院を転々と変えての入院の日々が一年ほど続きました。解雇され、
「二級障害者」に認定されました。
その後の七年間、私の人生は病に支配されました。アパートの中、
しばしばベッドで過ごし、私が病気になった時にまだ 14歳だった娘
が面倒を見てくれました。友人のナタリア・メルニコワが我が家に来
ていたある時、彼女は「神様はあと何年間あなたに与えてくださると
思う?一年?十年?その全ての時間をベッドに野菜みたいに横に
なって過ごす気なの?立ち上がりなさいよ。人は自分の足で立って
死を迎えるべきよ!」と歯に衣着せずに言いました。彼女の言葉は
まさに私が必要としていたモーニングコールで、私の座右の銘となり、
再び人生に参加する励ましになりました。ナタリアはまた、ロシアの
伝統的なエクササイズを教えてくれ、力の続く限り信心深くやった私は強い意志を取り戻しました。中国の太極拳のようなもので、非常に
ゆっくりと瞑想しながらやり、そのあと塩水のお風呂に入ります。
再び自らの足で立つ
1999年 8月、断続的な病気の合間に気分がずいぶん良くなって
いた私は、私以外の病気を患っているチェルノブイリのリクィデータ
ーたちのための NGO をオジョルスクで立ち上げるのを手伝いました。
リクィデーターたちの権利を守る法律が遵守されることを求めて戦う
組織で、恩給が正しく支払われていないという問題や、医療保障費
の計算が合わない問題、住居手当が支払われていない問題、診療、
健康を取り戻すためのセラピーなどに取り組みました。恩給の増額、
保健医療施設での年に一回の受診、何人かのリクィデーターのアパ
ートの確保を裁判で勝ち取りました。
2005年、私たちは病気と被曝の関係性を証明した政府の文書の
公開を求め、この文書をチェルノブイリの恩給を許可する専門的な
医学協議会に提出しました。私たちはロシア国立チェルノブイリ病人
連合とロシアの国会のメンバーとチェルノブイリ補償法と国立原子力
安全問題に関して連携しました。


写真を見ればわかる通り、1989年のチェルノブイリでの仕事の頃にはチェルノブイリはナタリアの健康に影響を与え始めていた。



一羽のコウノトリ!
チェルノブイリ事故はまだ終わっていません。事故によってもたらさ
れた汚染は世代をまたいで私たちについてまわります。長期的な危
険性は、核災害特有のものです。しかし、事故から二年後のある日、
バスにのっていた私たちを喜ばせたささいな出来事が起こりました。
思い出しては笑顔になる出来事です。
1986年の春、事故があった地域で暮らしていた鳥は弱々しい雛を
産みました。多くが秋に南へ渡るのについていけるほど強くありませ
んでした。翌年、1987年には原子炉の周り 30キロメートルの「区域」
内には全く鳥はいませんでした。1988年の春のある日、プリピャチ
に向かう途中に、バスの運転手が突然止まって野原に立っている一
羽のコウノトリを指差しました。外に出て少し眺めるや否や、すぐに私51
たちは抱き合い、笑い、涙しました。その最初の鳥がまるで、不毛な
土地に生命が還ってきたかのように感じさせてくれたのです。そこら
に一つしかない杭に止まって、古い村があるはずの地区の住み慣
れた巣を探していました。その村は消えてしまいました。核廃棄物と
して埋められてしまったのです。しかし、その朝はしばらくそのコウノ
トリが私たちを元気づけてくれ、チェルノブイリで継続している悲劇の
重みを軽くしてくれました。

ありがとう・・
「スパシーバ バルショーイ!(賛辞)」を以下の人々に捧げます。ナ
タリアと私のパートナーシップをサポートしてくれた人々、そして英語
版の「Hard Duty」を出すにあたって手伝ってくれた人々です。
- ルーシー・ロバート・ヘンリー(Lucy Roberts Henry):元ISARのメン
バー。彼女の友情と、私たちのパートナープロジェクトに対して卓越
した彼女のマネージメントに。
- ノーマ・バーコウィッツ(Norma Berkowitz):FOCCUS の精力的なリ
ーダー。2004 年のチェルノブイリの旅を実り多いものにし、またなに
よりもチェルノブイリの被害者のために彼女がした仕事に対して。
- マブス・マンゴ(Mabs Mango):やはり FOCCUSのメンバーで、チェ
ルノブイリの被害者のために長い間働いている。ナタリアによれば
「マブスはすべての女性がそうありたいと思うような女性です。やさし
く、寛大で、聡明で、優雅で上品なのです。」
- ナタリア・ヴィソツカ博士(Dr. Natalia Vysotska): キエフ大学所属。ナタリアと私が「Hard Duty」を書いていたときの言葉の橋渡しをして
くれ、また 2004年の旅の通訳だった。
- ヘレン・ディクソン(Helen Dixon):ニューメキシコ州タオス。私のロシ
ア語の勉強(現在も進行中)を辛抱強く助けてくれ、さらに重要なこと
は、英語版には有益なナタリアの技術的な語彙を含む文書を翻訳し
てくれた。
- クリス・メッチェルス(Chris Mechels):私の伴侶。たくさんのコンピュ
ータに関する質問に答えてくれ、また私がナタリアとロシアやウクライ
ナで旅をすることを熱心にサポートしてくれた。
みなさん、ありがとう!

写真提供
--ii (地図), 3,4,17,23,29,50,59 ( Natalia Manzurova) 
--iv, 8, 9, 30, 33-上, 52, 60-上 (The Name of the Star [is] 
Chernobyl, "Chornobylintereenform", 1996 (in Ukrainian) 
--6, 33-下, 42-上段, 44 (Chornobyl Museum, Kyiv, Ukr.) --24-上, 
26-上 & 下, 27-上 & 下, 60-下, 裏表紙-上 (Cathie Sullivan) 
--42-下(Jay Coghlan, Nuclear Watch of New Mexico) 
--43 (Greenpeace) --45-上 (UNDP, Chornobyl Recovery & 
Development Programme, Bulletin, February, 2002) 
--45-下 (Bulletin of the Atomic Scientists, Vol 52, No.3, 
May/June 1996) 
--59 (Gallery of Grief', 1986 -2001, published by Chernobyl 
Shield -in Russiian) --back cover child (The Chernobyl 
Children's Project, Dublin, Irelandによる 90年代の小冊子より) 
参考資料(脚注も参照のこと)
1) www.IEER.com Institute for Energy and Environmental 
Research 以下を参照www.ieer.org/latest/ourelectricfuture.html
(2006年 2月にアクセス) 原子力に対する批評
2) The Committee for Nuclear 
Responsibility http://www.ratical.org/radiation/CNR/ (スペルは
ratical) ゴフマン博士(Dr Gofman)の被曝と健康の原典
3) http://www.friendsofchernobylcenters.org/ (訳注:原本で
はwww.foccus.orgとなっていたが、今はない。変更したよう
だ)チェルノブイリで被害を受けた共同体を援助するNGO
4) The Legacy of Chernobyl, Zhores Medvedev, WW.Norton, 
1992. 権威ある事故の歴史
5) No Immediate Danger, Rosalie Bertell, Ph.D., The Book 
Publishing Company, 1985. 被曝の健康問題への解説書
6) The Human Consequences of the Chernobyl Nuclear 
Accident, A Strategy for Recovery, United Nations -UNDP, 
UNICEF, Feb., 2002 
7) Voices from Chernobyl, Svetlana Alexievich, Dalkey Archive 
Press, 2005. チェルノブイリに住んでいた住民の証言

電離性放射線について
電離放射線、主にアルファ・ベータ粒子やガンマ光子(光のよ
うなもの)は、ウラニウムやプルトニウムのような元素の、不
安定な原子核がより安定した原子に「崩壊」していくときに放
たれます。安定するということは原子核の陽子と中性子が結び
つくということです。
熱や可視光線のような他のもっと弱いエネルギーの形態と比
べると、電離性放射線には非常に強力なエネルギーがあり、原
子に衝突したときに原子の軌道から電子をはじき出し、電化し
たイオンを残します。このような高いエネルギーは生物細胞の
DNA分子のゆるい化学的結合を破壊します。以下は電離性放
射線がどれだけ凝縮されたエネルギーであるかを説明していま
す。*
同じエネルギー量が二つの異なった状態で人体に与え
られたとします。ひとつは400ラドの電離性放射線で
もうひとつは同じエネルギー量の熱です。放射線の方
を浴びた人は数日か数週間で死亡しますが、同じエネ
ルギーを熱として浴びた人は体温が組織1グラム毎に
摂氏1000分の1度上がるだけです。
*この例は医学博士ジョン・W・ゴフマン(John W. Gofman, MD)
著「人間と放射線 : 医療用X線から原発まで」(Radiation and 
Human Health) (Sierra Club, 1981)から。才能にあふれた教師で
あり学者であるゴフマンは、35年間にわたり独自に、電離放射
線による人体の健康への影響を分析し、それを一般の人にも分
かるように説明している。米国健康物理学会(US Health Physics 
Society)の創始者であるカール・モーガン博士(Dr Karl Morgan)は
ゴフマンのことを20世紀で最も偉大な科学者の一人であると言
っている。

以下は、上記の本の例による、アルファ、ベータ、ガンマ電離
性放射線の説明です。
アルファ、ベータ、ガンマ線を放射する不安定な放射性原子核



放射線の計測
レントゲン(R)ii頁のセシウムの汚染地図で使用されている
この単位は、空気中の電離(イオン化)を計測するためにガン
マ放射線を使った放射線量の古い単位。
ラド(rad –放射線吸収線量radiation absorbed doseの頭文字)生
理組織1グラム毎に受ける放射エネルギー100エルグの吸収線量。
1ラドで組織1CC(約1gの組織)毎に約10億の電離が起きる。
レム(rem –生物体における吸収線量) 種類の異なる放射線の
ラドにそれぞれの係数Qをかけて、生物学的影響を共通した尺
度にしたもの。
1キューリーは毎秒3700億の崩壊/核変換(粒子またはガンマ
線)。1ベクレル(Bq)は毎秒1回の崩壊。ピコキューリーは1兆
分の1キューリー。
半減期とはある放射性原子の半分が崩壊して他の種類の原子に
なる期間のことで、後者は放射性の原子になるものもあり、な
らないものもある。例えばプルトニウム239は半減期が約24000
年で、セシウムは半減期が約30年である。プルトニウムの放射
能の場合、数千年にわたってゆっくりと放射を続けるが、毎秒
それほど多くのキューリーではない。セシウムは半減期が30年
とはるかに短く、毎秒より多くのキューリーになる。ようする
に、半減期が短ければ短いほど放射は強くなり(多くのキュー
リーになり)、逆の場合も又同様である。

コメント
チェルノブイリの健康被害といった政治的な疑問に対して、だ
れが真実を語るのか?アメリカの核兵器プログラムを主導する
米国エネルギー省からの費用によってまかなわれる健康調査や、
原子力の促進をその使命のひとつにかかげる国連の国際原子力
機関IAEAの研究は、いずれもそれぞれの持つ核推進という使
命のため公正さに欠ける。ジョン・ゴフマン博士の意見による
と、これらの機関の研究では「数値があきらかに政治的な影響
を受けている。」CS
チェルノブイリからの声(Voice of Chernobyl)
スベトラーナ・アレクシェービッチ著
2005年Dalkey Archive Press発行
許可を得て引用
多くの「公式」チェルノブイリ報告に反して、「チェルノブイリ
の声」という本では、避難した村民、母親、父親、夫、兵士、
科学者、若いリクィデーターの夫を持つ新婚の妊婦が、悶死、
絶望、健康障害、損なわれた信頼、虚ろな未来について語って
いる。これらの生の証言は議論の余地がなく、チェルノブイリ
事故の健康への影響をほとんど「被曝恐怖症」による病気と矮
小化している政府や産業の面目を潰すものだ。
アーカディ・フィリン リクィデーター:
新聞に書いてあったのを思い出す:我々の原子力発電所
は絶対に安全で赤の広場にでも建てられる。サモワール
(訳注:伝統的な湯沸かし器)より安全だ。
ヘリコプターで科学者の一団が到着した。ゴムのスーツ
に長靴、防護用ゴーグルに身を固めていた。まるで月にで
も行くみたいだった。老女がやってきて、彼らの一人に言
った。「あんたは何者だい?」「私は科学者だ」「科学者
ね。見てごらんこの格好!あのマスク!私たちはどうなる
の?」彼女は棒を持って彼を追い回した。中世に人々が医
者を狩り出して溺れさせたように、いつの日か人々が科学
者を狩り出すのではないかと、私は何度か思ったものです。
セルゲイ・ガーリン、カメラマン:
あるとき兵士と私たちは老女が住んでいる小屋に入っ
て行きました。

「さあ、おばあちゃん行きましょう」
「はいな」
「じゃあ、身の回りのものをまとめてよ」
私たちは外でタバコを吸って待っていました。しばらくして老
女が出てきました。彼女は聖像と猫、そして小さな風呂敷包み
を持って出てきました。彼女が持っていたのはそれだけでした。
「おばあちゃん、猫は持っていけないよ。だめなんだ。毛が放
射能に汚染されているからね。」
「いやだね。猫と一緒じゃなきゃ行かないよ。置いてなんかい
けないよ。この仔だけを置いては行けないよ。私の家族なんだ
から。」

1986年から2001年の間に平均年齢54.4歳で死亡した504人のリ
クィデーターを集めたロシアの小冊子から、一部の写真。1986
年当時、ソ連の男性の平均寿命は64.9歳で、女性は74.6歳だっ
たので、彼らは男性で10年、女性では20年寿命を縮めたことに
なる。

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